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月の光  - 前編 -

その小さな島の港がある入り江に船が入ると、太陽はもう真上から傾いていた。
船の上から海を覗き込むと、海の中を小さな魚が泳いでいるのが見える。娘がもっと幼い頃は、小さな魚が出てくる話が大好きだった。
今、その話をしても娘は喜ばないと思う。

とにかく娘というのは難しい。

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3年前に別れた妻が小学校に入学する前までを過ごしたこの小さな島には彼女の実家がある。彼女とは、今でも仲がいいのだが、それは娘がいるからだと思う。

離婚する事を決めた時、5歳になった娘に今後どうしたいかを尋ねたことがあった。
娘は少し考えて、「私、お父さんと一緒に暮らすけど、お母さんとも仲良くしなきゃダメよ。」と、答えた。僕ではなく、娘の今後を尋ねたのだけれど。

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元妻の母親は、彼女(元妻)と同じくピアニストだ。
彼女(元妻)がレコーディングやライブに参加するスタジオミュージシャン、つまり演奏家であるのに対し、母親の方は作曲家で、世界的に有名なピアニストである点で、彼女とは異なっている。元妻も、作曲をしていない訳ではないが、母親ほど、有名ではない。だけど、僕は、彼女の作る曲が好きだ。

今回この島に来たのは、親子3人で、半年振りにゆっくりと娘の誕生日を祝うという意味もあったのだけれど、他にも目的があった。

たまたま、彼女の母親に用事で呼び出された際に(彼女同様に、その母親とも離婚した今も仲がいいのだ)、娘の誕生日のプレゼントを世間話程度に相談したときに、「あの子には、私が持っているラヴェルの“月の光”の楽譜をあげたらどう?直筆だし価値があるものなのよ。」と答えた。
8歳になる娘は、ラヴェルの楽譜を喜ぶのだろうか。

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彼女の実家は、小さな港町を抜けて岬を回りこんだ小さい入り江を望む古い建物だ。彼女が小学校に上がる年に、NYに移住した後も、別荘として使えるようにメンテナンスを怠らなかった。

彼女は僕と知り合った頃も、結婚した後も、離婚した後も、年に数週間を、この島で過ごしていたし、僕も何度か彼女と一緒に(娘や、彼女の母親が一緒の時もあった)、この島を訪れていた。小学校に上がる前までを過ごしたこの島や別荘は彼女にとってリラックスできる場所なのだろう。
数日前に電話で話したときも、彼女は先に別荘に行っていると話していた。

小さな港町を抜け、岬を回りこむ道を娘と二人で歩いている時、僕は彼女が持っている母親のピアノを想い出していた。
別荘にはピアノが3台ある。1台は彼女のピアノ、もう1台は1階のリビングにあり、もう1台が彼女の母親の部屋にあるピアノだった(その値段を聞いたときには、本当に驚いたけれど)。何度か訪問した際にも、僕はそのピアノには触らなかった。僕もピアノを弾くけれど、彼女や彼女の母親のようなプロフェショナルではない。

彼女と暮らしているとき、僕は何曲か作曲したことがあった。僕が作った曲で、彼女が気に入ってくれた曲は、娘の名前をつけた曲だった。 それとは別の曲で、すべての鍵盤を使う、ピアノの練習曲(それは、ハノンのようなものだったけれど)を披露したときは、彼女は途中で寝てしまっていた。
「あなたの文章はとても好きだけれど、曲はそうでもない。あなたの文章も好きだけれど、でもあなたの服のセンスはどうかと思うわ。」と、彼女は言っていた。

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岬を右手に見ながら回りこむ道の途中に彼女が待っていた。 彼女はしばらくの間、黙って娘を抱きしめていた。そして僕のほうに歩いてくると、ベルトの上あたりに腕を回して、その後で僕の頬に触ると「少し痩せた?」と言った。

別荘まで歩く間、母娘が手を繋いで前を行くのを見ながら、後ろから歩いているとき、僕は彼女と離婚した理由について、道筋だてて思い出してみたが、結果はさっぱりだった。いずれ、娘も僕と離れて暮らしたいと思う日が来るのだろうけれど、それについて考えることは寂しかった。

別荘に到着してしばらくすると、さらに太陽は傾き、入り江は、だんだんとオレンジ色へと、色調を変化させていった。僕は、この別荘からみる、夕日が好きだった。空の色が、濃いブルーと紺色の間くらいになったあたりで、僕は料理にとりかかった。彼女と娘は、目の前の砂浜を散歩しているようだ。

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親子3人で食事をし、娘が寝た後で僕はゲストルームのベットに寝転んでいたが、眠気がまったくなかったので、昼間想い出した彼女の母親のピアノのある部屋に行ってみることにした。

母親のピアノは、窓からさす光の中に浮かび上がっていた。

彼女がよく言っていることだが、ピアノというのは、本当に一台一台、本当に個性がある。それは、タッチの重さだったり、鍵盤の色あせ具合、音のこもり具合など様々だが、存在感があるピアノというのは、めったにないと思う。
月の光の中で見るそのピアノは、呼吸をするように、そこに存在していた。

彼女が幼い頃、彼女の母親は、よくこのピアノを弾いてくれたそうだ。まだ、彼女は自分専用のピアノがなかったので、1階に置いてあるピアノで練習をしていたそうだ。彼女は、母親の弾くピアノを聴いているのが好きで、中でも“月の光”が一番好きだった彼女は、母親に何度もリクエストしたと、聞いたことがある。

勝手に、そのピアノを弾くことはためらわれたが、1階のリビングは防音になっていないし、彼女の部屋のピアノを弾くわけにもいかない。(なにしろ、彼女の部屋では、娘と彼女が寝ているのだから)。
僕は、ピアノの反響板を持ち上げて固定し、鍵盤のカバーをそっと上げた。
月の光を反射して鍵盤は不思議な白さで光の中に浮かんでいる。日に焼けてもいないし、シミもなく、古いピアノとは思えないほどキレイで、それは、鍵盤をすべてオーバーホールしたのか、それとも、このピアノが特別なのかはわからないが存在感があった。
鍵盤に指を置くと、指先に冷たくしっとりとした鍵盤の感触が伝わった。
僕は、彼女が気に入らなかった、すべての鍵盤を使う練習曲を弾いてみた。すべての鍵盤をくまなく使うというコンセプトは馬鹿げているとは自分でも思うけれど、でも、練習曲なんて、指のウォーミングアップができればそれでいいのだし、僕にとっては、ピアノを弾く前の儀式になりつつあった。娘と二人で暮らすようになっても、いつもこの曲を弾いてから、自分の弾きたい曲を弾くようにしていたため、娘もなんとなく憶えてしまっているようだ。

彼女の母親が持っているラヴェルの楽譜は、もうひとつ奥の書庫兼ベットルームにあるそうだが、ゲストルームに書庫の鍵を忘れてきたため、楽譜を取りにいくのは後回しにした。

 彼女の母親の部屋の窓からは、小さい入り江を見渡すことが出来た。防音のガラス越しに見える右手の岬の上に白い月が出ている。
月の光の中で、音もなく波がゆっくりと砂浜を行き来し、沖のほうまで見える海にはほとんど波が見られなかった。音のない世界で見る海は、死の世界に存在する海、というか、生きているもののがすべて息絶えてしまった後、海や、太陽や、風だけが存在する世界の海のようだ。

僕は、せっかくだから“月の光”を弾いてみることにした。
彼女と結婚している間、彼女はあまり僕の前でピアノを弾くことはなかったけれど、僕はよく彼女の前でピアノを弾いていた。僕はピアノを弾くのが好きだし、ピアノの曲がすきなのだ。
“月の光”は僕が中学生の時に、たまたま聞いて以来好きになり、以来弾くようになったのだが彼女と話すようになったきっかけもこの曲だった記憶がある。窓からさす月の光の中でこの曲を弾いていると、ふとそんなことが思い出されたのだけれど、たぶん彼女に話したら馬鹿にされるだろうなと思い、娘ならどう思うだろうと考えながら、ピアノを弾いていた。



そういえば、娘の前で月の光を弾いたことはない気がする。
CDを聞くときはたいてい自分の部屋が多い。娘はスタンダードジャズが好きだ。

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翌朝、改めて彼女の母親の書庫を探したが、指定された場所に、ラヴェルの楽譜はなかった。

娘と彼女のために朝食を作りながら、僕は彼女の母親にも、ハウスキーパーにも電話で尋ねたが、どうしてもラヴェルの楽譜を見つけることができなかった。

朝食の席で、僕がこの話をすると、彼女はたまに来ているゲストが借りて要ったんじゃないかといい始めたが、母親の話では、その楽譜は確かに書庫にあるという話だった。
娘の誕生プレゼントに楽譜を考えていたこともあり、楽譜が見つからないと困ったことになるなと考えていると、突然、娘が「ママ、パパを困らせないで!」と言った。

娘には、いつも驚かされる。
by ikkyuu_as_cousaku | 2005-04-02 20:49 | PV