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記憶 - 雨 (2) -

記憶」 「舞台:記憶 【後編】記憶 - 雨 (1) - の 続きです。

去年の10月半ばくらいのことだった。その日は、20時くらいまで残業があり、その後麻希子と会う事になっていた。会社の後輩と三人で飲んでいたが、終電に間に合わず、後輩と三人でタクシーに乗った。

246から宮益坂を下りているあたりで、麻希子が具合悪いと言い始めたのだが、降りる事が出来ずに、結局ガードをくぐり、道玄坂を上がりかけたところで車を降りた。後輩にはそのままのってって貰った。顔がちょっと赤かったので、彼女はお酒が強いはずなのだが、飲み過ぎたかなと思った。

翌日朝早く客先に直行しなければならなかったのだが、打ち合わせの後、家に帰って着替えてもいいなと思い、その日は、結局その辺にあるホテルに止まる事にした。

お風呂に入ったあとも、顔が赤いのが治らず、熱も出てきたようなので、寝るように言って様子をみた。額を触ってみると、熱く、風邪をひいてしまったのだと思った。フロントに氷を下さいと電話すると、最初は不審がっていたが、「一緒にいる人が熱が出たようなので」と事情を話すと、すぐに持ってきてくれた。ドアがノックされたので出てみると、フロントの女性で、「大丈夫ですか?」と心配そうに訊ねてくれたのだが、わからなかった。ただ「大丈夫だと思います」と答えるしかなかった。風邪薬や解熱剤は聞いたけれどなかった。

持ってきて貰った氷を見てみると、一度溶けた氷を再び氷らせたようで、全てくっついて大きな氷の塊になっていた。さて、どうやってこれを砕こうかと思い、浴室に行くと、ちょうどバスタブが大理石でできていたので、そこで袋ごと叩き付けて砕く事にした。
驚くほど大きな音がでたが、フロントから苦情の電話が来たら、アイスピックでも借りようと思ってだまって砕き続けたが、思ったよりはかどらなかった。ようやくいくらか氷ができたので、洗面器に水を張り氷を入れて、タオルを絞った。

ベットで寝ている麻希子は子どもが冬に外で遊んで帰ってきた時のように、真っ赤な顔していた。
見ていると本当に子どものような顔をしているので、不思議に思った。頬を触ってみると、子どものようにすべすべしていた。そして相変わらず熱かった。汗で額には髪の毛が何本かくっついていた。
額に冷たいタオルを載せると、一瞬目を覚まして麻希子は「ありがとう。」と言ってまた目をつぶった。

何度か氷を作り、タオルを換えたが、熱は下がらなかった。
寝顔を見ているうちに、いつのまにか、ベットの脇で突っ伏して寝てしまっていたようだ。

目を覚まして、落ちていたタオルをもう一度冷やして、額に載せた。
自分がなにもしてあげられない、こういう状況を、前にも経験したような気がした。

どうして、熱が出して寝ている麻希子の顔が子どものように見えるのか、考えながら、また僕は眠ってしまっていた。



雨の中で、早坂は、自分の記憶が雨のように降ってきて、そして、流れていくのを感じた。

早坂は、ふと、自分はこれから死んでしまうのだ、と思った。

助手席では、麻希子が目をつぶった顔をこちらに向けている、意識もないのだろう。
その顔をみて、早坂はあの時と同じだと思った。自分は動けず、このまま死んでしまう。

かろうじて動く左手で麻希子の頬にさわった。
不思議な空から、音を立てずに降ってくる雨は、涙のように、頬を伝い落ちる。

あの雲間から光るが差す空から音もなく降る雨の中で、ピアノの音が、どこか遠くから聞えた気がした。
誰が弾いているのかわからないが、古い映画の中で奏でているような不思議な響きだ。

死んでしまう事については恐怖はなかったが、今この世界で意識があるのが、早坂一人であるような孤独感があった。
麻希子はこの後、どう生きていくのだろう。どのようにでも生きていけるのだろう。ただもう自分はまもなくここからいなくなってしまう。

最後まで、彼女を描いたあの小説を自分から言う事はできなかった。
聞えないとは思ったが、早坂は、ログインパスワードを麻希子に向かって、声にならない声で呟いた。

雲の間から差す光が、段々と強くなってきた。光は早坂の視界と意識を覆い尽くしていくようだ。孤独も光にうめつくされていく。
麻希子の顔を見ながら早坂はいつのまにか目をつぶっていた。


舞台:記憶 【後編】」へ続く
*画像提供 。んへらby z_mrkwさん 3のそ空■ / らへん。by z_rahenさん  ■Last Splash

by ikkyuu_as_cousaku | 2004-10-31 20:53 | 永日小品